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いまも鮭は暮らしとともに

昭和40年代、人工ふ化事業が結実し、長く不漁が続いた鮭漁は、 前年比2倍もの驚異的漁獲量更新を繰り返します。かつての高級魚は、 日本の食卓を彩る最もポピュラーな食材の一つとなり、全国の店頭には日々塩鮭が並びます。 鮭を巡る状況が大きく変わる中、かつて内陸開拓を牽引した標津線は、 東北地方からの季節労働者・青森衆を招く「道」となり、不足する鮭漁期の労働力補強に貢献しました。 鉄道が廃線となったいまは、アスファルトの「道」を通り、全国そして世界から、 鮭加工に従事するため集まる「シャケバイ」と呼ぶ若者達の姿が、毎年秋の風物詩となっています。 一万年に渡り、当地で織りなされた数々の物語。そこには常に鮭との関わりがありました。 鮭に笑い、鮭に泣いた根室海峡沿岸は、人も自然も、あらゆるものが鮭とつながる「鮭の聖地」として、 いまもその恵みを求める人々の往来が続いています。

地域HACCPの先へ

秋鮭の網おこし(標津町提供)

昭和40年代になって人工ふ化事業がついに実を結び、長く不漁が続いていた鮭漁は驚異的な漁獲量を更新し、 かつて高級魚だった鮭は日々の食卓に欠かせない大衆食材の一つとなりました。 そのなかで、標津町は食の安心・安全を標榜し、2000年に独自の取り組みとして 「地域HACCP」を導入します。生産者、加工業者、流通業者が一丸となり、水揚げから卸売、 加工、輸送まで一貫した体制を整えるようになります。これは全国に先駆けて実施された体制で、 水産業のみならず各地の食品加工業にも影響を与えました。

船上一本〆鮭輪切りと白子

鮭をめぐる取り組みはさらに進化を続けています。町の秋鮭漁獲量は1990年代後半から 2000年代前半にかけて2万トンに迫る勢いを見せていましたが、2008年に 約6000トンと激減し、現在まで不漁傾向が続いています。また、ノルウェーやチリ産などの 養殖鮭が輸入されて人気が高まるとともに、国内産秋鮭の価格が急激に下落もしました。
こうした苦しい状況のなかで、2008年から町と漁協、釧路水産試験場とが共同で独自の 活締め技術を研究し、鮮度を長く保つ「船上一本〆」が誕生しました。漁業者が一尾ずつ 手作業で鮭の血抜きを行っています。
活締めの鮭はイクラや白子も圧倒的に色が良く、 鮮度を保って加工ができ、とくに白子はそれまであまり消費されていませんでしたが、 関東方面を中心に新たな取引が生まれています。

また、より高品質な標津産をアピールするブランド化の動きも進み、 2019年に標津産ケイジを「王標(オウヒョウ)」、標津産特大サクラマスを 「伊茶仁マス(イチャニマス)」と名づけ、差別化した商品として全国に向けた発信が 始まっています。別海の「献上西別鮭」、羅臼の「羅皇」、根室の「歯舞紅鮭」 「歯舞時不知」と共に、江戸時代のブランドであった「鱒形拾壱品鮭形四品」が、 現代に蘇ろうとしているのです。

標津と鮭の
多様なつながり

忠類川でのサーモンフィッシング

標津町には鮭を漁業資源としてはもちろん、科学的、文化的な視点からとらえる場所があります。 1991(平成3)年にオープンした「標津サーモン科学館」は、サケ科魚類や標津の海や川にすむ 魚を展示する「水族館」と、鮭の生態や文化を紹介する「博物館」の機能をもち、大学など 研究機関との共同研究に力を入れるほか、2012年から漁業関係者とともに町内河川で鮭の 自然産卵調査と改善に向けた活動を続けています。
また、町を流れる忠類川では国内初の「サーモンフィッシング河川」としての取り組みが行われ、 鮭の遡上時期になると全国から釣り愛好者たちが集結します。町の一大イベント「秋あじまつり」 には周囲の市町村からも多くの人が詰めかけ、近年は産卵後の鮭を活用した「鮭節」など新しい 加工品も生まれ、全国から注目を集めています。

鮭飯寿司

人々の暮らしに、鮭は変わらず寄り添い続けています。とくに町民が標津を 「鮭のまち」と強く感じるのは、毎年標津漁協から町内世帯へ鮭一尾が贈られる時期。 町内の家庭では鮭を手早くさばき、一尾を余すことなくおいしく食べきる食文化が根付いています。 家の軒先に「鮭とば」を干す風景があったり、自家製の「いくら醤油漬け」や「鮭飯寿司」を自慢し合ったり、 一番好きなのは「山漬け」とうなずき合ったり、地域の食文化は現在も日常に息づいているのです。

昔と変わらぬ製法で熟成されるの山漬け