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野付半島の先にあった、
世界への入り口

根室海峡沿岸中央部に突き出る野付半島は、全長 28km に及ぶ日本最大の砂嘴 (さし)です。 左右に海が迫る野付の一本道を行くと、トドワラ、ナラワラという立ち枯れた樹林が広がり、 その荒涼とした光景はまさに “最果ての地” をイメージさせます。
しかし、ここは古代北方文化の時代から江戸時代に至るまで国後島への渡海拠点となり、 その先の千島列島を通じて世界に開かれていた日本の東門として、 絶えず人々が往来する「道」の役割を担ってきたのです。その賑わいは、 かつて先端に歓楽の場があったという『幻のまちキラク伝説』として語り継がれています。 時代を越え人々の往来を誘ったのは、根室海峡最大の産物である鮭でした。

海峡に浮かぶ東への門・野付半島

野付半島の中ほどに広がる「ナラワラ」は、海水の侵食でミズナラが立ち枯れたもの

根室海峡沿岸中央部に突き出る野付半島は、全長28kmに及ぶ日本最大の砂嘴 (さし)です。 左右に海が迫る野付の一本道を行くと、トドワラ、ナラワラという立ち枯れた樹林が広がり、 その荒涼とした光景はまさに “最果ての地” をイメージさせます。
しかし、ここは古代北方文化の時代から江戸時代に至るまで国後島への渡海拠点となり、 その先の千島列島を通じて世界に開かれていた日本の東門として、 絶えず人々が往来する「道」の役割を担ってきたのです。その賑わいは、 かつて先端に歓楽の場があったという『幻のまちキラク伝説』として語り継がれています。 時代を越え人々の往来を誘ったのは、根室海峡最大の産物である鮭でした。

根室海峡沿岸のどこからでも国後島を見ることができる

目前には、千島列島に連なる国後島が横たわり、その距離は16kmほどしかありません。 野付半島は古来、海峡を挟んで向かい合う北海道の本土側と島側の結節点でした。 古代から江戸時代に至る遺跡や史料から見えてくるのは、野付半島を経由して人とモノが 激しく行き交い、文化を共有していたことです。
国後島からさらに東の択捉島、千島列島へとつながり、 その先にあるのは背後にロシアの大陸が控えるカムチャツカ半島です。 野付半島は東に向かって開かれた「門」であり、広い世界への入り口だったのです。 それは現在の荒涼 とした風景からは想像もできないほど、歴史の激しい変化に さらされた地だったことを物語っています。 そして根室海峡沿岸地域最大の産物である 『鮭』も、時代とともに役割を変えながら、歴史の一端を担ってきたのです。

千島列島とつながるメナシの地

野付半島の先端部には、1799(寛政 11)年、国後島への中継点として幕府によって 設置された野付通行屋跡が残ります。野付半島から北は水深が浅いため、 ここで渡海用の舟に乗り替えていました。支配人が常駐し、島へ渡る人々のための 宿泊施設や蔵などもあったといわれています。この地に「キラク」 という歓楽街が あったとされる伝説もありますが、近年の調査から、野付通行屋跡と周辺の鰊番屋跡の ことではないかと考えられています。

「キラク伝説」のモデルになった野付通行屋跡にある墓

野付半島の先、国後島と択捉島から千島列島にかけては東方を指す 「メナシ」と呼ばれており、メナシのアイヌは松前(和人地)からの漆器や絹布、 古くからアイヌの人々の重要な交易ルートでした。根室海峡沿岸の国後島に面した 地域一帯は・綿布・鉄鍋などを、千島アイヌのラッコ毛皮・鷲羽などと交換していました。 千島側からのこうした品は「軽物」と呼ばれ、和人社会で大変珍重されたため、 蝦夷地の交易品が藩の財政を支えていた松前藩にとって重要だったのです。
1783(天明3)年に著された『赤蝦夷風説考』には、「蝦夷の東北の末の海上に 千嶋と名付く嶋々大小あり。この嶋つゞきより折々交易する事、昔より有之由」とあり、 千島からの交易品のなかには、から鮭(干鮭)も見えます。アイヌとの交易の独占権を 持っていた松前藩は、商場知行制(あきないばちぎょうせい=上級藩士による交易)に よってロシアや北千島の産物を手に入れていました。のちに国後島にも商場として クナシリ場所を設置しています。


その後、場所請負制(ばしょうけおいせい=商人が交易を請け負う)へ変わると、 メナシの地・キイタップ場所とクナシリ場所を請け負った飛騨屋久兵衛は、 ニシベツ(現在の本別海)の西別川に大量にのぼる鮭で塩引きを製造。1786(天明6)年、 幕府が試験的に場所経営を行った御試(おためし)交易の際には5万4千本を作り、 船で江戸や松前へ運んだという記録も残っています。
しかし1789(寛政元)年、飛騨屋の場所の支配人らから非道な扱いを受けていた アイヌの人々が蜂起し「クナシリ・メナシの戦い」が起こりました。背景には、 鮭のしめ粕づくりという重労働を強制的に課せられ、冬の保存食の干鮭などが作れず、 アイヌ自身の暮らしがままならなくなったことがあります。鮭をめぐる出来事からは、 交易の媒介者から一介の労働者へと変えられていったアイヌの人々の姿が見えてきます。

千島列島の開発と野付通行屋

「根室の金刀比羅神社の横にある「高田屋嘉兵衛」像

18世紀末は、メナシの地にとって激動の時代といえます。千島列島ではラッコ毛皮を 求めてロシアが南下を始め、北千島のアイヌの人々のロシア化が進んでいました。 さらに外国船が頻繁に蝦夷地へ来航することにも危機感を覚えた幕府は、1799(寛政11)年 から7年間、東蝦夷地(太平洋側)を直轄。幕府の直接経営で交易を行うと同時に、 千島列島の開発を図り択捉島までを領土としました。野付半島に通行屋が設置されたのは、 まさにこの時です。根室海峡沿岸は、蝦夷地本土における対ロシアの最前線であり、 野付半島は千島列島への足がかりとなったのです。
前年の1798(寛政10)年、大規模な蝦夷地調査で訪れた役人の近藤重蔵は、千島列島調査の際、 択捉島に「大日本恵登呂府(エトロフ)」の標柱を建て領土であることを宣言します。 その帰り、野付に宿泊したことが従者の日記から分かっています。1800(寛政12)年、 重蔵は蝦夷取締役御用としてエトロフ掛を命ぜられると、千島列島を念入りに調査し、 地図を作成。それが、蝦夷地からサハリン、千島列島、カムチャツカ半島までの地名が克明に 記された「蝦夷地図式 乾坤(けんこん)」です。
また、廻船業者の高田屋嘉兵衛とともに国後島との間の択捉航路を開発し、 その後高田屋嘉兵衛は択捉島に漁場を開き、根室、国後、択捉を拠点とする 場所請負人となりました。


時代はくだって1858(安政5)年、6度目の蝦夷地踏査を行っていた北方探検家・松浦武四郎が 野付通行屋を訪れています。当時、通詞(アイヌ語通訳)として在住していた加賀伝蔵を高く評価し、 江戸に戻ってからも自身の著書や地図を贈るなど交流が続きました。そして「鮭の筋子を今年も 一樽送ってほしい」と手紙で懇願もしているのですから、武四郎は西別川など根室海峡沿岸の鮭の 価値をよく知っていたのでしょう。野付半島は、交易の入り口から防衛と開発の入り口へと 変化しながら、海峡をへだてた“向こう側”へ絶えず人々を導いてきました。
こうした野付半島の役割は、古代北方文化の時代から連綿と続いてきたことが分かっています。 そして、海峡を越えた人々の動きを支えたのは、当地の自然と人と、あらゆるものの糧となった 鮭だったのです。