「鮭の聖地」を語る
構成文化財

Story01

野付半島の先にあった、世界への入り口

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番号 写真 名 称 指定等の状況 概 要 所在地
1-1 野付半島 野付半島

未指定
(文化的景観)

根室海峡の強い沿岸流によって運ばれた砂礫が堆積して形成された日本最大の砂(さ)嘴(し)。半島の先端付近から国後島まではわずか16kmの距離で、 島に最も近い。その地理的特性から、国後島への渡海拠点として、時代を越え、 人々が往来し、時には千島列島を介し世界に通じる日本列島の東門として交流窓口となっていた。江戸時代には半島先端部に No.4 の通行屋が設けられていた。 ※北海道遺産選定資産

別海町
標津町

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1-2 知床 知床

未指定
(文化的景観)

知床半島は火山活動と侵食活動により形成されたもので、険しく雄大な自然景観が見られる。ここでは流氷によりもたらされた恵みをサケ科魚類が陸に運ぶといった、海と陸とが一体となった生態系が見られ、これが野生生物の密度の濃さを支えている。この地では、このような自然を背景にNo.1-4が出土した松法川北岸遺跡を始めとするオホーツク文化の遺跡の密度が高くなっている。また、根室海峡の対岸の国後島への交流拠点となっており、これら遺跡の存在は、知床がその自然的価値だけに留まらず、古来より人間の暮らしと不可分の土地であったことを物語っている。 ※世界自然遺産

北海道
羅臼町

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1-3 根室半島 根室半島

未指定
(文化的景観)

根室半島は白亜紀後期から古第三紀の海底地形が隆起して形成された隆起海食台地で、海岸地形は50~80mの断崖であり、その上に平坦な地形が広がっている。この崖の上の平坦面は、コタンを見下ろし、根室海峡を航行する舟の監視に適した地形であることから、半島一帯にチャシ跡が残されており、No.2-3根室半島チャシ跡群と共に文化的景観を形成している。

北海道
根室市

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1-4 松法川北岸遺跡 松法川北岸遺跡

国指定
重要文化財
(考古資料)

オホーツク文化は、かつてメナシと呼ばれた根室海峡沿岸地域を舞台に国境とは無縁の交流を行っていた古代北方文化の一つである。 松法川北岸遺跡出土品はオホーツク文化の人々の暮らしを知ることのできる出土品で、ヒグマ頭部を模した木製容器など当時の生活用具が数多く残されている。

羅臼町

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1-5 根室半島のオホーツク文化出土品

根室半島の
オホーツク文化出土品

未指定
有形文化財
(考古資料)

根室半島のオホーツク文化出土品には、舟に乗ってクジラ漁を行うオホーツク人の姿が彫刻された骨角器など、根室海峡における海洋民族オホーツク人の暮らしぶりを伝える資料が数多く残されている。

根室市

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1-6 野付通行屋跡遺跡

野付通行屋跡遺跡

未指定
(史跡)

江戸時代、国後島への渡海拠点として幕府が野付に整備した休泊施設。幻のまちキラク伝説のモデルといわれている。 開設以来、多くの人々がここに立ち寄り、国後島へと渡っていた。また北方四島からもたらされる生産物の輸送中継点としても利用された。 根室振興局により北方領土遺産として選定されている。

別海町

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1-7 サケ属魚類の化石

サケ属魚類の化石

町指定
天然記念物

大地と海とをつなぎ、根室海峡沿岸地域のあらゆる生命の支えとなった鮭の存在を象徴する資産。標津町伊茶仁沖の海から引き揚げられたもので、岩石鑑定の結果知床半島付近の300万年前の地層から産出した化石と推定されている。人類が根室海峡沿岸に定着する遥か以前から、鮭がこの地域の生態系の一部として存在し続けたことを証明するもの。

北海道
標津町

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Story02

鮭でつながり合う北方古代文化の人々

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番号 写真 名 称 指定等の状況 概 要 所在地
2-1 標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡

標津遺跡群伊茶仁
カリカリウス遺跡

国指定
史跡

発掘調査の結果、あらゆる時代の竪穴から、多量のサケ科魚類の骨が出土し、 またDNA分析の結果、そのほとんどが秋に遡上するシロザケである可能性が高いことが指摘されている。 豊富な鮭資源を求め、一万年に渡って人々の往来が続いた結果残された大規模竪穴住居跡群。 伊茶仁はアイヌ語の“イチャン(鮭が産卵するところ)”に由来する地名で、アイヌもここが鮭の豊富な場所 であると認識していたことを物語っている。 ※世界文化遺産暫定一覧表記載候補

標津町

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2-2 根室管内の鮭鱒遡上河川

根室海峡沿岸の
鮭・鱒遡上河川

未指定
(天然記念物)

根室海峡沿岸の河川は、ほとんどがアイヌ語に由来する名を持ち、多くの河口にはチャシ跡も残る。 またそのすべてが鮭・鱒遡上河川であり、人々の暮らしを支えてきた。鮭はアイヌ語でカムイ・チェプ (神の魚)と呼ばれるが、これは鮭が神なのではなく、知床の海にいる「魚持ち神」が、 手にする袋を開いて中から魚の骨や鱗を海に撒くと、それが鮭となって人々の暮らす村がある川を上ってくる、 という伝承によるもので、「神からの贈り物」の意味とされる。

根室市
別海町
標津町
羅臼町

2-3 根室半島チャシ跡群

根室半島チャシ跡群

国指定
史跡

チャシ跡は、根室海峡沿岸一帯の交流が盛んだった時代、湊に利用された各河川河口を中心に、 そこに暮らすアイヌが設けた施設。祈りの場、談判の場、戦いの砦など時代と共に様々な役割を担ってきた。 根室海峡沿岸南部の根室半島では、海底火山の噴火によってできた険しい自然地形を活かし、多くのチャシ跡が築かれている。

根室市

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2-4 西月ヶ岡遺跡

西月ヶ岡遺跡

国指定
史跡

根室海峡に注ぐ河川河口を湊とする集落の典型。周辺にはNo.7の根室半島チャシ跡群の一つである アツケシエトチャシ1号チャシ跡、同2号チャシ跡があり、この場所が古代からアイヌ文化期に至るまで、 長期に渡る暮らしの場であったことが解る。

根室市

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2-5 タブ山チャシ跡

タブ山チャシ跡

町指定
史跡

根室海峡沿岸中部を代表するタブ山チャシ跡は、そこから一望できる景観の範囲内で、 かつてアイヌ、和人、ロシア人との衝突と交流にまつわる数々の事件が起きた。 No.18加賀家文書にはタブ山チャシ跡にまつわる伝承の絵図も残されている。

標津町

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2-6 望ヶ丘チャシ跡

望ヶ丘チャシ跡

未指定
史跡

望ヶ丘チャシ跡は、根室海峡沿岸中部に流れる標津川河口に形成されたチャシ跡で、No.2-5タブ山チャシ跡と共に、No.3-6加賀家文書に残される伝承の絵図に登場する。

北海道
標津町

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2-7 タチニウス川北岸チャシ跡

タチニウス川北岸
チャシ跡

未指定
(史跡)

根室海峡北部を代表するチャシ跡。No.10根室半島チャシ跡群、 No.12タブ山チャシ跡等、海峡沿岸のチャシ跡と共に、河川河口の湊として、 また回帰する鮭の監視場として、アイヌの時代の活発な交流の歴史を伝える遺跡。

羅臼町

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Story03

メナシの地で会津藩士が灯した産業の光

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番号 写真 名 称 指定等の状況 概 要 所在地
3-1 標津神社

標津神社と
その奉納品

社殿・境内
未指定
(史跡)
奉納品
町指定有形文化財(工芸品)

18世紀後半、メナシに最初の鮭漁場を開設した飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)の創祀に始まり、根室下会所歴代場所(漁場)請負人達によって整備されてきた社。飛騨屋は現地のアイヌを労働力に、漁場経営を行ったが、その過酷な使役が原因で、アイヌの不満を買い、寛政元年(1789)、アイヌによる和人殺害事件「クナシリ・メナシの戦い」が起きた。事件には、千島列島を南下するロシア人とアイヌとの接触も絡んでおり、事件後、幕府はロシアへの警戒を強め、それまで外国とみなされてきた蝦夷地を、日本の内に取り込む契機となった。

標津町

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3-2 金刀比羅神社

金刀比羅神社

未指定
(史跡)

19世紀初頭、ロシアの接近を警戒した江戸幕府は、択捉島までを日本の領域として主張するため、択捉航路開設に力を入れた。金刀比羅神社は、野付から択捉島までの航路を切り拓いた高田屋(たかだや)嘉(か)兵衛(へえ)によって創祀された根室上会所の社。嘉兵衛はNo.12タブ山チャシ跡からも見える国後沖でロシア船に拿捕され、カムチャッカ半島へと連行されたが、持ち前の寛容さでロシア人と交渉し、当時緊張関係にあった日ロ両国の和解へとつないだ。

根室市

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3-3 「俄羅斯舩之圖」「ワシレイラフロウ之圖」

「俄羅斯舩之圖」
「ワシレイラフロウ之圖」

市指定
有形文化財
(古文書)

江戸時代中ごろの18世紀に、千島列島を南下するロシアと日本が、根室海峡を舞台に接触し、日本が最初に欧米列強の脅威を経験した時の驚きを描いた絵図。寛政四年(1792)、根室海峡沖にロシア使節ラクスマンが、ロシア船エカテリーナ号に乗って現れ、日本とロシアの最初の外交交渉が行われた。

根室市

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3-4 会津藩士の墓

会津藩士の墓

町指定
有形文化財
(墓碑)

幕末に日本東門の国境警備と開拓を担った会津藩の歴史にまつわる文化財。当時会津藩は藩士とその家族200名以上を蝦夷地に派遣し、標津に本陣を設け、現在の別海町西別川からオホーツク紋別までの領域を治めた。標津代官を務めた南摩綱紀は、江戸昌平黌に入門した頃に黒船を目の当たりにし、西欧の先進性を痛感した。以来、洋学修行に励み、異文化への理解と、蝦夷地開拓の重要性を知る。南摩の蝦夷地開拓に賭ける思いは、「標津番屋屏風」の中に描かれることになる。根室振興局により北方領土遺産として選定されている。

標津町

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3-5 会津藩陣屋跡

会津藩陣屋跡

未指定
史跡

No.3-4会津藩士の墓と共に、幕末に日本東門の国境警備と開拓を担った会津藩の歴史にまつわる文化財。当時会津藩は藩士とその家族200名以上を蝦夷地に派遣し、標津に本陣を設け、現在の別海町西別川からオホーツク紋別までの領域を治めた。会津藩陣屋跡は、本陣として利用した陣屋の一部が確認されている場所で、アイヌのチャシ跡(ホニコイチャシ跡)が残る場所を再利用して陣屋が築かれていた。文久三年(1863)12月の創建以降、代官南摩綱紀の指揮の下、ここを拠点に会津藩は国境警備と開拓を進めた。

北海道
標津町

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3-6 加賀家文書

加賀家文書

町指定
有形文化財
(古文書)

野付通行屋で長年アイヌ語通訳を務め、後に標津場所支配人となった加賀屋伝蔵が後世に伝えたもの。文書類の中には、標津代官南摩綱紀が、和人とアイヌが共に開拓に臨む社会を築くため、互いの文化の違いを理解し合うのに用いた『アイヌ語の教書』や、江戸時代のブランド鮭を紹介した『鱒形図拾壱品鮭形図四品』等が含まれている。根室振興局により北方領土遺産として選定されている。

別海町

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3-7 旧開拓使別海缶詰所

左は開拓使時代にアメリカから導入された建築物の特徴を示す母屋小屋組み

旧開拓使別海缶詰所

町登録
歴史文化遺産
(建造物)

「蝦夷地」から「北海道」に改まった後の明治11年、和人の定着と外貨獲得を目的に、北海道開拓使によって西別川河口に設置され、根室地方の近代的水産加工業の先駆けとなった産業遺産。この工場はやがて当時の有力資本家の一人藤野家に譲渡される。国後島を含め、根室海峡沿岸地域では、藤野家の他、碓氷、和泉など多くの資本家によって缶詰工場が開設され、明治20年代までに水産業のまちは隆盛を極めた。根室振興局により北方領土遺産として選定されている。

別海町

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3-8 碓氷勝三郎商店の酒蔵

碓氷勝三郎商店の酒蔵

町指定
有形文化財
(古文書)

碓氷勝三郎は、明治初期から缶詰業、酒造業を興し、根室地域の水産業の発展を支えた。現在根室管内唯一の酒造メーカーとして、地酒「北の勝」を醸造している。大正2年に建築されたレンガ造の酒蔵が残る敷地では、かつて鮭・鱒缶詰も生産されていた。明治30年以降の鮭不漁期には、国後島ではカニ缶詰、別海ではエビ缶詰を開発し、日本で初めてその生産に成功した。

根室市

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3-9 根室海峡沿岸の缶詰ラベル

根室海峡沿岸の
缶詰ラベル

未指定
(歴史資料)

明治時代に世界市場を席巻した、鮭缶詰をはじめとする、根室海峡沿岸地域の一次産業生産品の缶詰ラベル。輸出用のため漢語・英語の表記がみられる点が特徴。明治30年以降、鮭の不漁と共に、エビ、カニ、ホタテ、牛肉など、様々な缶詰が生産された。

根室市花咲港209

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野付郡別海町宮舞町30

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3-10 珸瑤瑁獅子神楽

珸瑤瑁獅子神楽

市指定無形
民俗文化財
(民俗芸能)

根室海峡沿岸での水産業の発展には、全国各地からの移住者の存在が不可欠であった。 富山県黒部市から根室市珸瑤瑁(ごようまい)に移住した人々もその一団である。 獅子神楽は1913(大正2)年に舞ったのが最初とされ、現在も受け継がれている。

根室市

Story04

海に、大地に、人々の挑戦は続く

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番号 写真 名 称 指定等の状況 概 要 所在地
4-1 野付湾の打瀬網漁

野村湾の打瀬網漁

未指定
(民俗技術)

水深が浅く、海底にアマモが群生する野付湾では、動力船が使えず、昔ながらの帆船でホッカイシマエビ漁が行われている。その始まりは碓氷缶詰工場が鮭不漁期の新たな原料として、エビの活用に成功した明治30年頃と考えられている。例年夏漁は6月中旬~7月中旬、秋漁は10月中旬~11月上旬に行われている。
※北海道遺産選定資産

別海町

4-2 根室の昆布漁

根室の昆布漁

未指定
(民俗技術)

根室の昆布は、根室半島歯舞や落石地区で既に江戸時代の頃から採草が行われ、鮭漁と共に当地域の伝統的主要産物であった。特に北前船を通じた対清国貿易の重要輸出品の一つとなっていた。明治20年代以降鮭資源が減少し、一方で当地域への移住者が増加する中、安定操業可能な昆布漁兼業者、専業者が増え、やがて北方領土方面にも広まった。根室半島では6~10月に漁が行われている。

別海町

4-3 金刀比羅神社例大祭

金刀比羅神社例大祭

北海道指定
無形民俗文化財

金刀比羅神社例大祭は、鮭資源の減少に直面した漁業者が、ここで生きるために選んだ漁の一つ、北洋漁業の拡大と成功を背景に、大正8年以降、毎年8月9、10、11日の3日間に行われるようになった祭礼である。この祭礼を特徴付ける神輿渡御には、4つの祭典区がそれぞれで山車を出し、子供や若者が担う演目が加わり約1kmに渡る大行列となる。水産のまちとして発展した根室を象徴する大規模な祭礼である。

根室市

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4-4 海辺の牛舎跡

海辺の牛舎跡

未指定
(建造物)

主に明治30年代から昭和30年代までの、漁業者が漁業だけでは生きられなかった時代、副業として畜産農業を行い、半農半漁の生活を送った歴史を伝える建造物。野付半島には牛舎跡のほかにも、サイロの跡も点在している。根室海峡沿岸地域での畜産農業の有効性は早くから知られ、鮭不漁期は、標津漁協も牧場経営を行っていたこともあった。

標津町

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4-5 旧奥行臼駅逓所

旧奥行臼駅逓所

国指定
史跡

明治から大正時代、鮭漁と並ぶ安定した産業を確立するため、海岸部から内陸部への開拓が志向され始めた。根釧(こんせん)台地内陸交通網は、駅逓(えきてい)制、殖民軌道、標津線の順で発展する。旧奥行臼駅逓所は、鉄道未発達地域の内陸開拓拠点として、北海道独自の発展を遂げた、人馬継立による交通網駅逓(えきてい)制の歴史を伝える内陸交通遺産。明治43年に開設されたもので、現存する数少ない駅逓所(えきていしょ)建造物。

別海町

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4-6 旧別海村営軌道風蓮線奥行臼停留所

旧別海村営軌道風蓮線
奥行臼停留所

町指定
有形文化財
(建造物)

根室海峡沿岸部における鮭漁と並ぶ一大産業、酪農の展開と確立を支えた交通遺産。根釧(こんせん)台地での主畜農業への転換を進めるには、①農家の農法転換、②生産品の牛乳受入先、③消費地までの輸送手段の3つを、同時並行で整備する必要があった。殖民軌道は、海岸部から内陸部への開拓が始まった大正から昭和初期にかけ、根釧(こんせん)台地に整備された初期鉄道網。別海村営軌道風蓮線は、標津線敷設後も支線として活躍した。
※北海道遺産選定資産

北海道
別海町

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4-7 標津線関連資産群

標津線関連資産群
(4-7-1 旧根室標津駅転車台)
(4-7-2 奥行臼駅)
(4-7-3 旧根室標津駅~旧川北駅間線路跡)
(4-7-4 旧国鉄標津線上春別駅跡)
(4-7-5 旧別海駅~旧厚床駅間線路跡)
(4-7-6 旧光進駅)
(4-7-7 旧平糸駅)

町指定
史跡(4-7-1)

有形文化財
(建造物)
(4-7-2)

未指定
史跡(4-7-3~7)

町登録
史跡(28-4)

根釧(こんせん)台地の内陸開拓を大きく進展させ、酪農景観の誕生を強力に後押しした開拓路線標津(しべつ)線の歴史を物語る内陸交通遺産。また鮭不漁期に冷凍車両を導入したことで、新巻鮭の販路を東京まで切り拓き、高付加価値をつけて販売できたことで、漁業者の暮らしも支えた。現在は始終着駅根室標津駅の歴史を物語る「旧根室標津駅転車台」(4-7-1)、現存する唯一の標津線駅舎「奥行臼駅」(4-7-2)、「旧根室標津駅~旧川北駅間線路跡」(4-7-3)、「旧国鉄標津線上春別駅跡」(4-7-4)、「旧別海駅~旧厚床駅間線路跡」(4-7-5)、「旧光進駅」(4-7-6)、「旧平糸駅」(4-7-7)が残されている。

根室市
・別海町

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・標津町

MAP

4-8 根釧パイロットファーム関連文化財群

根釧パイロットファーム
関連文化財群

未指定
(有形民俗文化財)

鮭漁と並ぶ安定した産業を確立するため、根釧(こんせん)台地での主畜農業への転換を進めるには、大規模な資本投資が必要であった。根釧(こんせん)パイロットファーム事業は、昭和30年代以降、世界銀行の資金を導入して、大規模な近代酪農村建設を目指した国家プロジェクトである。昭和31年から別海町豊原地区を中心に進められた。根釧(こんせん)パイロットファーム関連文化財はこの事業にまつわる建造物、農機具群である。

別海町

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4-9 根釧台地の酪農建造物群

根釧台地の
酪農建造物群

未指定
(伝統的建造物群)

根室海峡沿岸部における鮭漁と並ぶ一大産業、酪農の展開を伝える農業遺産。腰折れのギャンブレル屋根を持つ牛舎は酪農地帯を象徴する建造物の一つ。またタワー型サイロはラップサイレージ(牧草ロール)等新たな技術の普及により、そのほとんどは使用されなくなったが、現在も酪農家の家に残り、目を引く形状から牧場のランドマーク的存在となっている。

・別海町
・標津町

4-10 根釧台地の格子状防風林

根釧台地の
格子状防風林

未指定
(文化的景観)

明治30年、北海道の国有地を入殖者に無償で提供する制度が公布され、根釧台地に大規模な殖民区画が設定された。格子状防風林は、適地適作の酪農を徹底し、根釧(こんせん)台地開拓が成功した結果、現在の地上に浮彫のごとく現れた殖民区画の名残。鮭漁と並ぶ安定した産業の確立を象徴する景観。
※北海道遺産選定資産

・別海町
・標津町

4-11 明治公園のサイロ

明治公園のサイロ

国登録有形文化財

明治公園は1875(明治8)年開拓使根室牧畜場に端を発する牧場跡である。1894年に漁業、海運業を営んだ山縣勇三郎が所有していた時期は、サケをはじめとする沿岸漁業が低迷し、産業の多角化が見られる頃で、新たな産業として畜産業をこの地域に根付かせた。 現存のレンガ造サイロは渋沢栄一を会長として発足した有終会が経営していた1932年から1936年にかけて建設されたものである。

根室市

MAP

Story05

いまも鮭は暮らしとともに

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番号 写真 名 称 指定等の状況 概 要 所在地
5-1 鮭とばを干す風景

鮭とばを干す風景

未指定
(風俗慣習)

大量の鮭が採れる環境と北前船で運ばれた塩が生んだ鮭の熟成塩蔵法。根室海峡沿岸地域の鮭は高い品質を誇り、当時は「メナシ鮭」「ニシベツ鮭」として、ブランドになっていた。生産された山漬けはそのほとんどが江戸で販売され、中でも西別川で採れた鮭は「献上鮭」として、毎年決まった作法で塩漬けされ、将軍家に献上された。

別海町
標津町
羅臼町
根室市

5-2 山漬けの製法

山漬けの製法

未指定
(風俗慣習)

大量の鮭が採れる環境と北前船で運ばれた塩が生んだ鮭の熟成塩蔵法。根室海峡沿岸地域の鮭は高い品質を誇り、当時は「メナシ鮭」「ニシベツ鮭」として、ブランドになっていた。生産された山漬けはそのほとんどが江戸で販売され、中でも西別川で採れた鮭は「献上鮭」として、毎年決まった作法で塩漬けされ、将軍家に献上された。

別海町
標津町
羅臼町
根室市

5-3 鮭飯寿司の文化

鮭飯寿司の文化

未指定
(風俗慣習)

江戸時代に始まる山漬け製法と、明治時代に北陸からの移住者が伝えた「なれ寿司」文化とが融合して生まれた食文化。漁期終了の11~12月、番屋で山漬けされた鮭は、漁業者に振舞われた。山漬けを持ち帰った漁業者は、家庭で飯寿司の仕込みをし、新年の味覚として食された。標津町では毎年1月11日に家庭の味を披露する鮭飯寿司大試食会が開かれる。

別海町
標津町
羅臼町
根室市