鮭の聖地エコミュージアム構想12のエピソード

Episode10 根釧台地開拓と内陸交通の変遷

鮭・鱒の資源が枯渇した明治30年代以降、人々は新たな水産資源開拓とともに、副業として馬産・肉牛生産を行う半農半漁の暮らしを定着させていきました。この畜産の成功が、後に根釧台地内陸部での酪農発展につながっていきます。広大な根釧台地への入殖者の不屈の精神とともに、酪農景観を押し広げた原動力となったのは、駅逓や殖民軌道、そして開拓の鉄路・標津線の存在でした。

明治30年以降、鮭鱒資源が減少すると、漁業者はエビやホタテなど新たな水産資源開拓と共に、漁の合間の副業として、馬産や肉牛生産を行うようになります。半世紀以上におよび漁業と畜産農業を兼業する半農半漁のくらしが続きました。この時代の名残が、「海辺の牛舎跡」としていまも残されています。

一方で根室海峡沿岸の村々では、不安定な水産業に代わる安定した産業を創出するため、明治時代末期以降、根釧台地内陸の開拓が進められます。全国から多くの入殖者が移住し、本格的な内陸開拓が始まったのです。この内陸への人々の進出を後押ししたのが、駅逓から殖民軌道、国鉄標津線へと発展した陸上交通網です。駅逓とは、人や物資を馬や人足を継立ながら輸送した初期の陸上交通手段で、明治時代以降、北海道の鉄道未発達地域を中心に発達した制度です。「旧奥行臼駅逓所」(別海町)は1910(明治43)年に設置され、1930(昭和5)年まで利用された現存する数少ない駅逓所跡です。周辺には殖民軌道の「旧別海村営軌道風蓮線奥行臼停留所」、旧国鉄線の「旧標津線奥行臼駅跡」も残り、ここが原野開拓の拠点であった歴史を物語っています。

10-2-植民地軌道奥行臼停留所-min

旧別海村営軌道風蓮線奥行臼停留所

10-3-標津線奥行臼駅跡-min

旧国鉄標津線奥行臼駅

10-7-海辺の牛舎跡の冬景色-min

海辺の牛舎跡の冬景色

殖民軌道とは、開拓を促進するために敷設された初期の鉄道網です。根釧台地の殖民軌道は大正末期に敷設が始まり、当初は馬が引いて運行されました。風蓮線の動力化は1963(昭和38)年で、1971(昭和46)年に廃止されています。開拓が進むにつれて殖民軌道の輸送量は限界を迎え、国鉄線の敷設機運が盛り上がります。1933(昭和8)年から順次運行を開始し、1937(昭和12)年に全線が開通します。標津線は開拓者の受入、昭和30年代には国家プロジェクトのパイロットファームへ入植者を迎え、また水産資源や牛乳の出荷など、1989(平成元)年の廃止まで、根室海峡沿岸や根釧台地の発展に大きく貢献しました。

旧根室標津駅転車台」は機関車の進行方向を反転させるために使われたもので、ここが標津線の始終着駅だったことを伝える施設です。現在、「旧根室標津駅~旧川北駅間線路跡」はフットパスのルートとして整備され、別海町の「旧国鉄標津線上春別駅跡」には往時の簡易ホームが現存し、町の歴史文化遺産となっています。

10-2-植民地軌道奥行臼停留所-min

旧別海村営軌道風蓮線奥行臼停留所

10-3-標津線奥行臼駅跡-min

旧国鉄標津線奥行臼駅

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海辺の牛舎跡の冬景色