鮭の聖地エコミュージアム構想12のエピソード

Episode12 鮭の食文化

根室海峡沿岸に生きた人々を一万年以上にわたって支えてきた「鮭」。江戸時代にはすでにブランドとして知られ、将軍家への献上品ともなっていました。この地では古代から、鮭のさまざまな保存法や食文化が育まれてきました。干鮭(からざけ)は極寒の冬を乗り切る保存食となり、江戸時代から今に続く塩蔵法や、他地域からもたらされた技術との融合により生まれた食の風習など、根室海峡沿岸には鮭にまつわる食文化が育まれています。

はるか一万年前の縄文時代から、根室海峡沿岸では鮭の利用を軸とした暮らしが続いてきました。かつての狩猟と採集で生きる暮らしの中で、毎年秋に遡上する鮭は安定した食料資源として貴重な存在だったことでしょう。当時の鮭は冬を乗り切る保存食として、天日で干し乾燥させ蓄えられていました。縄文時代の頃には既に行われていたこの利用法は、時代が下った江戸時代末期に描かれた標津番屋屏風でも、アイヌが保存用に鮭を干す様子が描かれています。そして現在も「鮭とばを干す風景」がこの地域の初冬の風物詩となっています。

江戸時代末期から明治の初めまで、代々、釧路・根室地方の場所請負人のもとで働いた加賀家が書き残した「加賀家文書」からは根室海峡の鮭の評価を知ることができます。文書の多くはアイヌ語通辞(通訳)であった三代目・伝蔵が書き残したもので、中でも根室地域の鮭・鱒の特徴がわかりやすく表現されているものが「鱒形図拾壱品鮭形図四品」です。この書物(図版)は、主に根室場所で獲られた鮭・鱒の種類について描かれ、イシカリ(石狩)やトカチ領(十勝)の鮭・鱒についても書かれていることから、当時の蝦夷地の鮭と鱒のカタログともいえます。とりわけ西別川の鮭は最も品質が良いとされ、当時将軍家への献上品として贈られていました。この時の鮭の保存方法が、北前船でもたらされた塩を使った塩蔵法、「鮭山漬の製法」です。大量の塩をまぶした鮭を積み上げ、数日かけて鮭の重みで水分を抜いて熟成させることで旨味を増すこの製法は、山のように鮭を積み上げることから 「山漬け」と呼ばれました。その製造法は先ほども登場した標津番屋屏風の中にも描かれています。根室海峡沿岸で古代から利用され続けた鮭が、江戸時代に北前船でもたらされた塩と出会うことで生まれた技術です。

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加賀家文書「鱒形図拾壱品鮭形図四品」(提供:別海町郷土資料館)

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鮭とばを干す風景(提供:標津町教育委員会)

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山漬けの製法(提供:別海町教育委員会)

時代がさらに下り、明治時代に入ると、全国から新たな移住者がやってくるようになります。この時、北陸方面からの移住者がもたらしたのが、飯寿司の文化です。飯寿司は魚を飯に漬けて発酵させた西日本の「なれずし」がルーツとされ、北海道では麹を用いて短期間で発酵熟成させ、冬の保存食として受け継がれてきました。根室海峡沿岸では、この飯寿司と鮭山漬けが出会い、毎年正月頃に鮭の山漬けを用いた飯寿司を食べる「鮭飯寿司の文化」が誕生しました。

鮭という共通の食資源に対し、古代から近代まで、一万年の歴史の中で伝わった時代ごとの技術・製法により、根室海峡沿岸の鮭の食文化が培われています。

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鮭飯寿司

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加賀家文書「鱒形図拾壱品鮭形図四品」(提供:別海町郷土資料館)

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鮭とばを干す風景(提供:標津町教育委員会)

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山漬けの製法(提供:別海町教育委員会)

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鮭飯寿司