鮭の聖地エコミュージアム構想12のエピソード

Episode08 知られざる幕末会津藩北方警備の物語

安政6(1859)年、会津藩は国境警備と蝦夷地開拓のため、藩士とその家族約200名を蝦夷地に派遣しました。現地で代官として陣頭指揮を執った南摩綱紀は、標津場所通辞を務めた加賀伝蔵と共に、松浦武四郎が目指したアイヌと和人が共に臨む蝦夷地開拓を実践します。会津藩が幕末に北方警備を行った9年間のうち、綱紀が代官を務めたのはわずか6年でしたが、この時期に、後の水産のまち発展への礎が築かれるのです。

幕末、会津藩は蝦夷地警備と開拓を命じられ、藩士とその家族を蝦夷地に派遣します。野付の「会津藩士の墓」や、標津市街南にある「会津藩陣屋跡」は、当時の歴史を伝える文化財です。会津藩の蝦夷地開拓開始から2年後の文久2(1862)年、会津藩士南摩綱紀が代官として標津にやってきます。当時会津藩は京都守護職を拝命し、藩主松平容保は京都にいました。南摩は当初、この藩の一大事の中で京都とは真逆の蝦夷地に赴任しなければならないことに、悲嘆の思いを抱いていました。しかし、根室海峡沿岸の地にたどり着いた時、そこで優良な木材資源や、質量ともに優れた鮭をはじめとする水産資源に恵まれた豊かな土地の姿を目の当たりにします。将軍家への献上鮭として「山漬けの製法」がいまに伝わる西別川の鮭「ニシベツ鮭」をはじめ、標津川の「メナシ鮭」、伊茶仁川の「イチャニ鱒」など、この地域の品質の高い鮭鱒を活かした新時代構想は、青写真として「標津番屋屏風」に描かれ、その実現に向けた取組みが進められました。

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会津藩士の墓

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山漬けの製法(提供:別海町教育委員会)

その一つが、アイヌと和人が共に臨む蝦夷地開拓実現に向けた、アイヌ語による教育活動です。若き頃に西欧文明の先進性に触れ、異文化を理解する心を持った南摩は、アイヌと和人が互いに理解しあうには、双方の文化の違いを認め合わなければならないと考えます。そこで制作されたのが、当時の和人の道徳観を記した儒教関係の書物のアイヌ語訳本です。この翻訳を行ったのは、かつて野付通行屋で通辞を務め、後に標津場所支配人となる加賀伝蔵です。

加賀家文書」に残るアイヌ語の教書を使い、南摩はアイヌへの教育活動に力を入れます。この活動が実を結び、南摩が標津を去った慶応3(1867)年の根室海峡沿岸では、アイヌと和人の間で強い信頼関係が築かれるようになっていました。現地のアイヌたちは、南摩が去るときに残した「視民如傷(傷ついた者をいたわるように民を見る)」の書を額に入れ、標津番屋屏風にも描かれた会所の壁に掲げ、明治以降も心の拠り所としていたそうです。

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加賀家文書

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会津藩士の墓

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山漬けの製法(提供:別海町教育委員会)

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加賀家文書

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標津番屋屏風(提供:標津町教育委員会)