鮭の聖地エコミュージアム構想根室海峡「食」Story

StoryⅠ

一万年以上、人々を支え続ける根室海峡最大の産物

縄文時代から重要な食資源だった鮭

鮭は根室海峡沿岸で一万年近く前から人々に食資源として利用されていたと考えられている。縄文時代早期からオホーツク文化・擦文文化期にわたる日本最大規模の竪穴住居跡群「標津遺跡群」には、ポー川・伊茶仁川流域を中心に4400以上の竪穴住居跡が残され、あらゆる時代の住居跡から多くのサケ科魚類の骨がみつかっている。
なかでも縄文時代の遺跡の発掘調査では、出土した食料の遺物の9割をサケ科魚類の骨が占め、鮭が特に重要だったことがわかる。同じく鮭を主な食料としていた石狩川流域の遺跡では5割ほどの出土であることから、標津遺跡群に生きた人々の鮭の利用が、特出して多かったことがうかがえる。
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質と量で他地域を圧倒

江戸時代になると、根室海峡沿岸に進出した和人はこの土地でとれる鮭の質と豊かさに着目して漁場をひらいた。
18世紀、松前藩はすでに交易の重要品目として鮭・鱒の加工品を扱っており、19世紀半ばに根室海峡沿岸を領地として与えられた会津藩は、鮭を藩の重要産品に位置づけ、漁場経営にあたった。
標津の初代代官を務めた一ノ瀬紀一郎は「北辺要話」の中で、『海産物はたいへん豊富である。春は鰊を漁獲し、夏には鱒を漁獲し秋の季節には鮭を漁獲する。中でも、鮭を最大の産物としている。「メナシ」で漁獲する鮭は全て江戸へ運搬する。これは鮭の品物がきれいで、品位が外のところより高いからだという』と記録している。
メナシは根室海峡沿岸地域のことで、当時は会津藩の領地である。幕府に北方警備を命じられたころの会津藩は、財政が苦しく、秋に群れをなして川を遡る鮭はいわば宝の山にみえたことだろう。また、当時から「献上鮭」で知られていた西別川が藩の領地に入るように境界を定めたともいわれている。
献上鮭とは1800(寛政12)年から幕府に届けられた塩引きの鮭で、その評判は高く、毎年藩の重要行事として献上鮭作りが行われ、幕末まで続いた。
このように内外に質の高さが知れ渡っていた西別川の鮭は、明治時代になると北海道開拓使によって当時の最新技術で製造する缶詰の原料とされた。1878(明治11)年、西別川河口に「別海缶詰所」が建設され、ついに海外にまで輸出されるようになった。
しかし、明治後半から天然資源が枯渇し、鮭は次第に不漁になると、漁業資源の強化・開拓を目指して人工ふ化事業が始まる。1891(明治24)年、西別川に初めて人口ふ化場が建設されると、翌年には標津川、羅臼川、忠類川にも施設が建設され、この地域は北海道でもっとも早く人口ふ化場事業体制が整うこととなった。

江戸の献上鮭は現代のブランド鮭へ

1970年代には人工ふ化事業の成果が結実し、長く低迷した鮭漁は驚異的な漁獲量更新を繰り返すようになった。かつて高級魚だった根室海峡沿岸の鮭は、手頃な価格で大量に出回り、日本中の食卓で親しまれる食材になったのである。
その後、2000年代前半は根室振興局全体で5万トンを超える水揚げがあり、2003年には8万トンを記録するが、2008年頃からは再び不漁傾向が続いている。こうしたなか、鮭の聖地・根室海峡沿岸では、ブランド鮭の魅力を発信する取組みをスタートした。
標津では活〆め技術で鮮度を保つ「船上一本〆」や、標津産ケイジを「王標」としてブランド化を推進。別海では江戸時代から知れ渡る鮭を「献上西別鮭」として、羅臼では「羅皇」、根室では「歯舞紅鮭」、「歯舞時知不」をそれぞれ商品化し、積極的に発信している。
この土地の鮭は地域の人々に守り育まれながら一万年の時を超え、その品質とおいしさを変わらずに伝え続けている。
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標津町では毎年、「鮭さばき方講習会」が開催される。また、標津漁業協同組合の婦人部や有志の「しべつAmie」などが鮭の食文化を啓蒙する活動を行っている。「しべつAmie」では鮭コロッケや鮭春巻き、鮭かまぼこなどを作り、町内外のイベントに出店している。

船上一本〆鮭輪切りと白子

「船上一本〆」は、船上で魚が生きているうちに血液を抜く「脱血」を行い、魚の品質や鮮度を向上させる活〆め技術。肉質の色や張りが良く、鮮度を保つことができる。漁業者が1尾ずつ手作業で行っているが、活〆めの鮭はイクラや白子も圧倒的に色が良く、鮮度を保って加工できる。とくに白子はそれまであまり消費されていなかったが、関東方面を中心に新たな取引が生まれた。
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イクラ

イクラはロシア語で魚卵を意味するが、日本でイクラといえば鮭の卵をほぐして醤油または塩で味付けしたものを指す。根室海峡では広くイクラが製造され、全国的にも高い評価を得ている。現在のイクラの発祥地は標津町と伝えられている。
文献には昭和40年代にイクラの開発と販売網が確立されたと記されているほか、より古く「1953(昭和28)年にイクラを大規模に生産し、冷凍技術がなかったため木箱に入れ常温で送った。当時、道内でイクラを作れる場所は標津以外にはなかった」とも言われている。
イクラは産卵前の9~10月のメス鮭1尾から3000粒ほどが獲れる。標津町では最もイクラづくりに適した「Bメス」(鮭のランク付けの一つ。銀毛色に若干婚姻色が表れ、成熟度が増したメス)を使用する。町内のイクラ製品は現在、標津漁業協同組合および標津町水産加工振興協会に所属の民間水産加工業者で製造している。加工から出荷までは最短3日間。漁獲した魚をすぐに氷の中で冷やして鮮度を管理し、衛生管理された加工工程で製造される。
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鮭飯寿司

熟成させた鮭と野菜のうま味、米飯の甘味、発酵による酸味が一体となった味わいが特徴の飯寿司。根室管内では飯寿司に特産品の鮭を使い、年末年始に欠かせない地域の味として親しまれている。
飯寿司は、魚を飯に漬けて発酵させた西日本の「なれずし」がルーツとされている。北海道では麹を用いて短期間で発酵熟成させ、冬の保存食として受け継がれてきた。標津町では江戸時代に始まる、鮭の山漬けによる鮭飯寿司が伝統的に受け継がれている。
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