鮭の聖地エコミュージアム構想根室海峡「食」Story

StoryⅦ牛肉

不漁に耐え、暮らしを支えた黒毛和牛

明治初期、民間から始まった和牛導入

"根室地域の牛についての記録は明治初期から残されている。江戸時代に根室場所の場所請負人であった藤野家の藤野喜兵衛が、1873(明治6)年、南部から食用にするための和牛を移入して根室の花咲町で飼養したといわれている。
1875(明治8)年の開拓使根室牧畜場の開設以降、根室地域では乳牛の飼養が普及していったが、標津町周辺では、漁業者が漁業だけでは生きられなかった時代、副業として畜産農業を行い「半農半漁」の生活を送った歴史がある。
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水産資源の低迷。缶詰原料としても和牛利用が模索される

1878(明治11)年、開拓使は、「美味最抜秀」と評価されていた別海・西別川の鮭を目当てに、西別川河口に別海缶詰所を設置した。缶詰所は、1987(明治20)年には藤野家に払い下げられ「藤野缶詰所」として再出発。日露戦争中は軍用水産物缶詰を供給して躍進したが、明治30年以降、原料の鮭・鱒の不漁が続いたため、打開策の一つとして牛を飼育し原料とすることに着手していく。
中でも藤野家は、現在の標津町内陸部に2000ヘクタールもの広大な牧場を拓き、漁閑期に自社工場で使用する缶詰原料用の牛肉生産に力を注いでいた。同様に、この時期、漁業から牧畜業に転身する者も多く現れたのである。

資源回復を待ち畜産が暮らしを支えた

標津漁協は、鮭鱒ふ化事業や、ほたて稚貝の移植、チカの養殖などの浅海増殖の継続、イカ釣り漁やするめ加工などの努力を続けるが、水産資源の不足は続き、活路を出漁以外に求めざるを得なかった。そこで、標津町や北海道信漁連などの協力のもと、黒毛和牛を導入し、漁師に貸し付けて飼育させるという方策に踏み切った。牛の購入にあたっては、鳥取県や九州各県にまで足を運び、熊本県で優良な黒毛和牛を見つけた。1961、1962(昭和36、37)年の2年間にそれぞれ20頭ずつ、合計40頭を漁協が購入。希望する漁協組合員に一頭につき約5万円で貸し付け、3年で償還させるシステムを確立した。この黒毛和牛の飼育は不漁の時期に、組合員の家計をずいぶんと助けた。兄が漁業、弟が畜産業と兄弟で分業していた家もあったという。
当時、野付半島にあった牧場では年に2回、大規模な牛の競り市場が開かれていた。牛を飼育育している漁師が家族ぐるみで集まる一大行事で、牛が高く売れた漁師らは夜になると町の飲食店に繰り出し、ずいぶんにぎやかだったという。
野付半島には今も牛舎跡やサイロの跡が点在し歴史の足跡を伝えている。
1963(昭和38)年には、標津町崎無異に黒牛牧場が造成されるなどして、和牛の飼養は広がりをみせたが、1970年代に入り、長年取り組んできた人工ふ化事業がようやく実を結んだことで鮭の来遊数が増加。標津で漁師が黒毛和牛を飼養することはなくなっていった。
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標津町の知床興農ファームでは自社工場で牛・豚の製品を加工している。ステーキやハンバーグのほか、すき焼き用やソーセージ等も製造販売している。