鮭は根室海峡沿岸で一万年近く前から人々に食資源として利用されていたと考えられている。縄文時代早期からオホーツク文化・擦文文化期にわたる日本最大規模の竪穴住居跡群「標津遺跡群」には、ポー川・伊茶仁川流域を中心に4400以上の竪穴住居跡が残され、あらゆる時代の住居跡から多くのサケ科魚類の骨がみつかっている。
1996(平成8)年に標津沖で採取されたサケ属魚類の化石は第3紀鮮新世(250万年~370万年前)のサケ科サケ属のシロザケ、サクラマス、カラフトマスのいずれかと判定され、この地域に約300万年前から鮭・鱒が生息していたと推測される。約一万年前から鮭を主な食資源としてきた根室海峡沿岸の人々が、鮭と同じく鱒も利用していたであろうことは想像に難くない。
鱒漁は鮭漁に比べて需要が高まるのが遅れたが、江戸時代中期、鱒漁の漁法として曳網が使用されるようになってから著しく漁獲量が増えた。特に安永・天明以降、鰊が不漁となったため、鱒の肥料としての需要が増し、獲れた鱒の多くが搾粕と鱒油に加工されていた。