鮭は根室海峡沿岸で一万年近く前から人々に食資源として利用されていたと考えられている。縄文時代早期からオホーツク文化・擦文文化期にわたる日本最大規模の竪穴住居跡群「標津遺跡群」には、ポー川・伊茶仁川流域を中心に4400以上の竪穴住居跡が残され、あらゆる時代の住居跡から多くのサケ科魚類の骨がみつかっている。
昆布が日本の文献に登場するのは平安時代初期(797年)に完成した「続日本書紀」で、7~8世紀頃に蝦夷地から貴重な産物として朝廷に献上されていたとある。
昆布を運ぶ交易船が北海道と本州を盛んに行きかうようになるのは鎌倉時代中期以降で、室町時代に入ると越前国(福井県)の敦賀まで運ばれ、京都や大阪へも送られるようになった。その後は江戸、九州、沖縄、中国へと広がり、昆布貿易の道は「昆布ロード」と呼ばれ、様々な食文化が広がるきっかけとなっていった。
鱒漁は鮭漁に比べて需要が高まるのが遅れたが、江戸時代中期、鱒漁の漁法として曳網が使用されるようになってから著しく漁獲量が増えた。特に安永・天明以降、鰊が不漁となったため、鱒の肥料としての需要が増し、獲れた鱒の多くが搾粕と鱒油に加工されていた。